「信仰によって生きる」 02.06.30
ハバクク2:1〜4、ヘブライ10:32〜39
ハバククは、じっとしていられませんでした。正義が曲げられ悪が満ちている
世を見ながらイライラしています。神が悪を裁かれることは信じていましたが、
その時が来るのを待ち切れない思いで、見張り台の上にまで出て行きます。
あせり、心乱れていました。
そのとき神は、<人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。
それは必ず来る、遅れることはない>(3節)と答えられました。
<何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある>
(コヘレト3:1)とおっしゃる神は、「待つ」ことを語ります。
「最善の時」というのは、私たちが決めるのではないのです。
私たちの小さな知恵や一時の感情で決めた時が、最善などとは決していえません。
神の定められた時こそ、一番よい「時」であるはずです。
<走りながらでも読めるように>(2節)といわれるように人々は走り回っていました。
走りたくて走っているのではありません。様々のことに追われるようにして走っています。
目標があるわけでもありません。やみくもに走らされているのです。
そんな不安の中で走り回っている者に対して、「神の時」という到着点があることを
見失わないように、との呼びかけです。その「時」を見据えるならば、先が見えないまま
走る走りとはずいぶん違った走りになります。
<神に従う人は信仰によって生きる>と言われます。一番よい最善の「時」を備えて
くださり、「待っておれ。必ず来る」とおっしゃってくださる方への信仰をもっているとき、
イライラやあせりでなく、深い信頼の中で時に備えて生きられる者となるのです。
「神の時を待つこと」は、あきらめや開き直りのことではありません。
あせりでなく信頼の中で期待し、安心して生きることです。
神の答えを聞かされたハバククは、はっとして我に返って言います。
「わたしは静かに待つ」(3:16)、「わたしは主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊る。」
(3:18)それは、神を信じる私たちの歩みです。